【コラム】大船渡被災地取材を終えて。
どうも、YUMIO@東京です。
3週間に渡る岩手県大船渡市・津波被災地取材も
昨日でいったん終了となった。
毎日のように盛岡から2時間半かけて通った山道・・・
『次にこの道を通るのはいつのことだろう』と思うと、
なんだか寂しいような切ないような気持ちがこみあげてくる。
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今回ワタクシがお邪魔したのは、
大船渡市の中心部に近い『赤崎』という町だった。
復興作業が続けられているとはいえ、
津波の傷跡があまりにも酷く、
最初はカメラを向けることがためらわれたのだが、
『あれから1年3か月経った被災地を訪れた部外者の務め』
として、その記録を発信すべきなのではないかと思い、
最終日に撮った写真をいくつかここに掲載することにした。
ご覧の通り巨大な瓦礫の山があちこちに作られている。
瓦礫は一次、二次・・・と選別され、
環境負荷がかからないように分別作業がおこなわれている。
街ひとつ分の瓦礫を処理するのだから、
分別するのだってものすごく大変だ。
よくよく見ると2階まで津波が通り抜けたことがわかる。
今回の取材で改めて感じたのは、地震の揺れだけでは
今どきの建物は簡単に倒壊しないということ。
(地震のタイプにもよるのかもしれないけれど・・・)
大船渡市の場合、地震の揺れによる損壊はほとんどなく、
やはり津波による被害が大半を占めていた。
『三陸の豊かな海にたくす夢』の文字が胸に刺さる。
時計の針は3時25分。
一番大きかったとされる第二波の津波が
町を襲った時刻を指していた。
約300世帯のうち鉄筋のお宅が数軒残ったのみだが、
残った建物も生活ができる状態ではない。
それぞれの家の壁には『のこす』または『こわす』と
ペンキで書かれていた。
「もうここには住めないのはわかっているけど、
愛着がある家だけに、壊すに壊せない・・・」
と涙ながらに語ってくださった家主も居た。
※この地域は津波被害は大きかったものの
犠牲者の数を最小限にくい止めることができた
防災強化地区でもあった。
『被害を受けたエリア』と『そうでないエリア』の違いが
ハッキリとわかる。幹線道路となる国道や大きな県道は
ガードレールがすでに再整備されているが、
一歩奥の側道に入るとまだまだこの状態。
子どもたちの危険を考えると一刻も早く修繕を・・・
と思うのだけど、ここまで手が回らないというのが現状だ。
この地域の大人たちの母校でもあるので
『母校のこんな姿をいつまでも見続けるのがつらい』
と語る卒業生もいた。すでに高台移転が決まっているという。
高さ約10mの場所にある三陸鉄道『赤崎』駅。
この線路の上を伝って家族を探し歩いた人も多かった。
津波の翌朝も、こんな静かな海が広がっていたそうだ。
「家の2階の窓から見えるこの海が好きだった」
と語ってくれた20代の女性は「家は流されてしまったけど
できることならもう一度同じ場所に家を建てたい」と言った。
現在、被災地の皆さんが抱えている
最大の課題は【高台移転】だ。
沿岸部は、地域の横のつながりがとても強いため
『地域のみんなが揃って高台へ行けるなら・・・』
と望む声が多いのだが、
地域みんなで移転できるような広大な住宅地が
いまだ確保できずにいるのだという。
また、借地権が設定されていたり、
土地購入の面積上限が定められていたりと
今まで先祖代々の土地で
自由に暮らしていた人たちにとっては
承諾しがたい条件も様々あるようだ。
『高台移転の問題』
『瓦礫処理の問題』
何か自分にお手伝いできることがないかと考えてみたが、
いち個人では手がつけられないものばかり・・・
せめてものお手伝いとして、
『被災地の苦悩を風化させないこと』を
(あまりにも微力ではあるけれど)
今後も発信していけたら・・・と感じた今回の取材だった。
最後に、赤崎の皆さんが口々におっしゃっていたことを
この場で代わりにお伝えしたいと思う。
「全国の皆さんからの支援のおかげで
本当にみんなが助けられたれたんだ。
義援金もちゃんといただいたし、
物資もたくさん分けてもらったさ。
阪神淡路の震災の時を思い出してみると、
おらたちはここまで神戸のひとたちを
支援してあげられなかったと思って反省してるんだ。
日本全国のみなさんに『ありがとう』と言いたいなぁ」
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大船渡・赤崎町の皆さん、
取材調査へのご協力、本当にありがとうございました。
また来年、皆さんの元気な様子を見にお邪魔しますね!